1920年代アメリカ亜種特異点クトゥルフ
≪どんな時代か≫
禁酒法などの影響で、マフィア・ギャングなどが暗躍……というか、堂々と活躍していた。カナダからのウイスキー密輸など大規模な事も。
≪交通≫
法定速度は場所により変動、都市部では時速15-30キロ程度、郊外地では時速30-45キロ程度。1930年代になって道路や車の事情が改善されると徐々に法定速度は上昇した。
≪警察≫
警察はところにより腐敗。禁酒法なんて警察関係者も守ってない。
≪差別≫
黒人・アジア系などが差別されていた。イタリアやアイルランド出身者に比べて後に移住した中華系や日系の方が差別が強いなど格差があった。
※大陸横断鉄道の完成後、建設にたいへん貢献したアイルランド系・中華系のイメージは(若干)向上していました。
≪銃器≫
砲やドラムマガジンなど以外はだいたい簡単に手に入ります。通販でトンプソンが買える始末。
≪酒≫
禁酒法があっても、お酒は簡単に飲む事が出来る。半ば公然と運営されている酒場なんかもあった。
禁酒法の影響
1917年に憲法修正箇条に禁酒法が加わりました。
その後1919年に全州の4分の3が批進した事により憲法修正条項代18条として施行されました。
また、ボルステッド法という禁酒を規定した法律も施行されました。
これによると「個人が単純に酒を持っていること」「酒に酔うこと」は禁止されていません。
…つまり、個々人が単に自分で持っている酒を飲む分には何の問題もなかった
(だから禁酒法の施行直前には酒の買い占めが起こりました)
禁酒法時代ではアメリカ人は禁酒法が施行される前により多くの貯蓄をし、またより多くの清涼飲料水やお菓子を買うようになりました。
…事実、アルコール中毒者の数や飲酒絡みの暴力事件の件数は目に見えて減ったそうです。
禁酒法の支持者達はこれは禁酒法の成果と言いましたが、他の人々はそうした現象は禁酒法とは無関係と考えていました。
というのも、「都市文化の発展がライフスタイルを変化させ、その結果として酒びたりになる人が減っただけではないか?」との考え方もあったからです。
≪増加した犯罪≫
どうにかしてこの法を避けようと様々な手を考えた人がいました。(以下方法)
第一の方法は「酒の密売」。その主な購入先はメキシコやカナダ。
ギャングの主な資金調達方法がこれでした。これらの酒はモグリ酒場等で購入、飲む事が出来ました。
第二の方法は医者でした。人々はたとえ不必要な場合でも医者に掛かり診断書を書いて貰いました。
何故なら医者は「薬用目的」で誰かがアルコールを必要とする判断を下せたからです。
第三の方法はご家庭で密造酒を作ると言うものです。ぶどうジュースを何ヶ月も放置してワインを造る方法もありますね(下手にやると飲めたもんじゃないのでオススメしませんが)。
家庭での作り方は風呂桶に水を張って蒸留器を沈め、これを蒸留させ作られましたが味の面でも臭いの面で散々でしたので人々は様々な混ぜ物を加えました。
※代表的な物にグリセリンや杜松油等がありましたが、中には医療用のメチルアルコールも加えて作る方もいたのか、
それによる健康被害のせいで1500人もの死者が出たと言う記録も残っております。
これらのお酒は主に「月光」、「バスタブ・ジン」と呼ばれていました。「マウンテン・デュー」も元は密造酒(bootleg)の呼称だったりします。
※月光(moonshine)は、確かに密造酒の代名詞ですが。1920年当時は、まだ密造酒のブランド(?)ではありましたが代名詞ではありません。
そもそもmoonshineは、ディキシーの連中がドラム缶とか使って自家醸造してたのを、買い付けたり。ミシシッピあたりのディキシーマフィアが取引に使っていたもので。味とか品質は、一応まともなもんです。
結論:マフィアによる販売の他には個人が勝手に造って飲むという目的も多く、現在のアメリカにやたら地酒が根付いている一因だったりもします。
・諸外国への影響はほとんどありませんでした。
ただし、カナダ国内におけるアメリカ側への密輸取締に一定の協力をしたりはしてました。
(要するに、他国も野放しではなかった)
酒を求めに諸外国へと逃げ込む人は少なくはありませんでしたが……。
ロストテクノロジーとなったアメリカ独自のお酒の作り方もありますが、密造酒があまりに多かったことや禁酒法の穴を突いて続けられた製造法もありました。
この時代ではまだ未熟だったアメリカワイン産業は壊滅同然になりましたが、現在では世界でも有数のワイン生産国にまで成長しています。
≪娯楽≫
この時代の大衆娯楽は主にスポーツや映画等がありました。
その情報を伝えたのがラジオやタブロイド紙であり、特にラジオの影響力は絶大でした。
この時代、映画はアメリカ国民に非常に受け僅か数年で新しい娯楽としての地位を確立するまでに至りました。
この時代はサイレント映画が主流でした。所謂無音声映画と言う代物です。
(しかし無音声映画は後の1927年にトーキー映画という音と映像を併せた映画により次第に廃れていきます)
≪女性の地位≫
この時代において女性は今までとは明らかに違う変化を手に入れる事が出来ました。
彼女達は政治的、社会的地位を今までより多く獲得できたのです。
一番大きかったのは参政権を得たことでした。
19世紀中頃から女性に参政権を与える活動はありましたがそれは20世紀初頭に入り益々広まり、
そして1919年には婦人参政権運動はその頂点に立ちました。
憲法に修正条項第19条が書き加えられ1920年にはついに女性はあらゆる選挙に投票する権利を得たのです。
アメリカの女性はこの時代に個人生活の自由も求め始めました。
これより以前の若い娘達は兄弟達が外に遊びに行っても家庭の中にいるべきだと考えられていましたが、
この時代になるとその様な光景は少なくなっていきました。
フラッパーと呼ばれる女性は皆若く、活発で独立していました。
髪を短くし、丈の短いドレスを着、お化粧をして、車を運転し、ショッピングを楽しみました。
フラッパーの数はアメリカに住んでいた女性の割合と比べるとほんの僅かでしたが、
それでも1920年代には多くの女性が以前より多くの自由を獲得したのに違いはありません。
≪女性の職業≫
今までの女性の役割と言えば結婚し、子供を産み、そして家庭を守る物だと考えられていましたが、この時代になるとそんな事を考える人は頭でっかちの懐古主義(「ヴィクトリア朝的」、「清教徒的」と呼ばれたとか)だけと少なくなっていきました。
家族の規模が以前よりも小さくなった事も要因の一つでしょうが、以前よりも外で働く女性の数は多くなりました。
またこの時代には離婚数も倍(16%程度)になり、その結果多くの女性が戸主となりえました。
前にも増して女性は就職の為の訓練指導を受ける事が出来たのも大きかったでしょう。
より多くの女性が大学で勉強し、この時代の学位の3分の1は女性に与えられました。
そして女性が就職できる仕事の質も向上していきました。
以前の働く女性といえば、そのほとんどが工場労働者、あるいはメイド等の召使としてでした。
しかしこの時代では多くの女性が事務仕事につく事ができました。
もっとも医師や弁護士、大学教授のなり手は相変わらず少なかったですが。
KKK(クー・クラックス・クラン)の台頭
1920年代アメリカと聞いて大多数の人が思いつくであろう事は上記に書いた禁酒法
そしてこの時代に台頭したKKKを中心とする差別問題でしょう。
≪KKKの起源≫
KKKの起源は南北戦争後、奴隷解放に伴って無教養な黒人が暴れまわり、そのことによって治安が脅かされ住民たちが自警団を結成した事だと言われています。
この自警団が次第に過激化していきKKKへとなりました。
しかしこの『第一のKKK』とも言うべき集団は20世紀を迎える前にテロリストと認定され一斉摘発により消滅してしまいました。
ところが1915年、神のお告げを聞いたと言う白人の伝道師「ウィリアム・ジョセフ・シモンズ」により
以前よりより強固により残酷になった過激派として『第二のKKK』とも言うべき物が復活します。
特にメーン州ではKKKが強く広まっており、当時はKKKが州知事になり州民は皆KKKであると言う様な状況でした。
ここで良く間違われるのが「KKKは白人至上主義」というものですが正確には違います。
彼等は『アメリカ生まれの白人でありプロテスタントである人が国を支配するべきだ』と主張し、
そしてそれ以外の人々を排他する事によって国はより繁栄すると主張しました。
≪KKKの標的にされた人々≫
上記に書いた通り彼等の目的は『アメリカ生まれの白人でありプロテスタント』ではない人々の排他でした。
つまりそれ以外の人々は誰でも標的になる可能性があったのです。
例を挙げればキリスト教カトリック・ユダヤ人・外国から来た俗に言う移民・同性愛者・そして皆さんご存知の通り黒人が対象でした。
彼等は合衆国の人々にこれらの人達が経営する店では買い物にしないようにとの圧力をかけ、
また海外からやってきた移民の人達には職業や住居を見つけるの困難にさせました。
しかしやはりと言うべきかKKKは取り分け黒人と激しく敵対していました。
(家を放火されリンチを受けた黒人もいる)
≪KKKが社会に与えた影響≫
彼等が社会に与えた影響はとても大きく、ある州では毎日暴行、放火、殺人事件が起こる等凄惨な物でした。
多くの場所で恐怖と憎悪が渦巻き全ての標的になりそうな方々を恐怖に追いやっていました。
更に彼等はお金持ちのユダヤ人も敵視していた為アメリカの白人貧困層に大きく支持され、
幾つかの州では大きな政治的影響力を持っていた程です。禁酒法もクランは支持していました。
その為にそう少なくない数の政治家がクランと関係を持ち、選挙に有利に傾く様にしていた程です。
そんな影響力を持つ為かクランは1925年にはメンバーは400万とも500万とも言われていた程の一大組織となりました。
≪KKKの陥落≫
しかし彼等の台頭はそう長くもありませんでした。
組織が大きくなると一部の者達が以前は控えていた様な行動をし始めたからです。
離婚した女性に対する制裁、売春宿を「健全ではない」として打ち壊し、
そして決定的だったのが当時クランの指導者であった『デビッド・カーチス・スティーブンソン』の裁判です。
彼は1927年に女性を誘拐、暴行し、そして死に至らしめました。
当時裁判を行なった州がクランと関係を持っていた州知事だった為に安心しきっていましたが結果は終身刑となり
彼は二度と日を見る事は出来なくなりました。
それと同時に指導者を失ったクランはボロボロになり、以後大きな影響力を持つ事は二度とありませんでした。
移民・外国人問題
この時代ではアメリカ国民は移民等の外国人に対して嫌悪感を示していました。
ここではそれに対する問題、また移民法について纏めて置きたいと思います。
ここで言う移民は「大多数のアメリカ人と同じ祖先ではなく、宗教がプロテスタントで無いもの」です
≪移民の洪水≫
一昔前の南北戦争終結後、海洋航海技術の発展、更には蒸気機関の発達により今迄より遥かに多くの数の移民を大量に運搬する事が出来たのです。
以前にはイギリスやドイツ、アイルランド系(アイルランド人は昔移民が始まった時から嫌われていた)の北欧移民が多かったですが、
この時にはイタリア、ギリシャ、ハンガリー等の南欧移民が多かったです。
また、ユダヤ人のように迫害から逃れようとした人々も多かったです。
それぞれの年齢、男女比、子供が何人かはバラバラでしたが共通する事項が一つありました。
それは彼等が都市部に集まり米国の産業労働力プールの大きな部分を構成したのです。その結果、アメリカは経済大国へとのし上がる事が出来ました。
≪移民への非難≫
しかしこの大量に渡って来た移民に対して元々の米国人は次第に嫌悪感を抱いていました。
元々1890年代にもこの様な動きはあったのですが、その時にはまだそこまで深刻な物ではありませんでした。
しかし今回は『その移民の数があまりにも多かった事、都市部に集中して移り住んできた事、そして何より人が外国人に対して本質的に反感を持つ事』
都市部の方達は移民達のせいで自分の仕事が奪われてしまうんではないかと考え、また違う宗教を持つ物が国に入る事を嫌う方もいました。上記のKKKがその代表です。
これらのせいで移民に対する反感が再び現れ始めました。今回はより深刻になって。
外国人に対する米国人の敵対行為の一例を挙げますと
1919年から1920年もの間に、アメリカ司法長官は何千人もの外国人を狩り集め検挙しました。
そして大多数の外国人達は全く何の言われも無い理由で国外追放をされたのです。
≪移民法とそれによる制限≫
そして1920年代にはいくつもの移民に対する制限法が制定されました。
1921年に割り当てられ1924年に正式採用された移民割り当て法では移民の入国制限、更には出身国別に移民の数を割り当てました。
この移民法は大変複雑な内容を含んでおりますので出来るだけ簡単にまとめていきたいと思います。
基本的にこの法律はイギリス、ドイツ等の北欧、西欧諸国を優遇しましたが逆にイタリア、ギリシャ等の東欧、南欧諸国、それとユダヤ人の受け入れを厳しく制限しました。
この移民法は西半球の人々を割り当ててはいませんでしたのでメキシコ、カリブ諸島、その他中南米諸国の人々は米国に自由に入国する事が出来ました。
しかしこの法律はインド人やアジア圏に住む人達の移民を決して許さず、米国本土に入国する値は無いと書き記しています。
この法律によりアメリカへと移住しに来たヨーロッパ人は少なくなりましたが、逆にラテンアメリカからの移民は増えたとか。
この時代のギャング達
1920年代に欠かせない物と言えばギャング、ギャングといえば1920年代。
ここではその当時に禁酒法の中富を築きあげたギャング達の事について書き記します。
≪この時代のギャング組織≫
五大ファミリー
- マランツァーノ一家(サルヴァトーレ・マランツァーノ)
- ルチアーノ一家(ラッキー・ルチアーノ)
- マンガーノ一家(ヴィンセント・マンガーノ)
- ガリアーノ一家(トミー・ガリアーノ)
- プロファチ一家(ジョゼフ・プロファチ)
この時代の乗り物・交通事情
この時代に乗られていた乗り物等を書き込んで行きたいと思います。
皆大好きフォードT型からこの時代の空の旅の主役飛行船、そして戦車なんかも出来る限りスペックも書いて置きます。
≪車種≫
この時代の車の共通事項は法廷速度は40km、ドアは後部座席には付いてなく前に付いている物が一般的、トランクはまだ無かった等があります。
車のスペックは専門用語等が全く分からないので単純に
「どれだけ早いか・どれだけ扱いやすいか・どれだけハンドルを切りやすいか」等で扱います。
- フォードT型
この車の歴史は1908年から始まります。世に大量生産と言うアイディアを打ち出した初めての車、それがフォードです。
この車は人々の人気の的になり生産終了となる1927年までには約1500万台を生産、市場に提供されました。
またフォードの運転方法は少し変わっており誰でも簡単に難しい操作方法を覚える必要も無く運転できる物でした。
それも人気の一因を担っていたのかもしれません。
↓↓↓簡易スペック↓↓↓
乗用人数運転手1人+同乗者4人、ルルブにはこれに加えて荷台が付いていると書かれておりますが正確には、1930年代から荷台付きの車が作られ始めた為にこの時代にはトランクはどの車にもありませんでした。
最高スピードは約72km、ブレーキの制動能力は当時としても差ほど優れた物ではありませんでしたが
法廷速度が40kmでしたのでそれ程問題ではありませんでした。
速度変換は単純で「行進1」「行進2」「後退1」の3つの変換機が付いており誰でも簡単に速度変化出来る代物です。
エンジン始動の仕方は現在の様な鍵開けの容量ではなくエンジンについているクランクを回してからと手間がかかるものです。
電動式セルフスターターというクランクを回すのを補助してくれる機械がオプションで付いていましたので女性でも問題はありません。
タイヤは悪路でも問題無く走る事が出来、例え壊れたとしても家庭にある様な物で簡単に修理する事も出来ます。
ガソリンを入れれる量は詳しくは分かりませんが長時間の運用でも問題無いとの事です。
ライトは電気ヘッドライトが標準で付いております。
総評としてはやはりというかこれから出て来る新車と比べますとどうも性能的に見劣りする面がチラホラあります。
しかしそれを補って余りある不思議な魅力がある車と言えるでしょう。
1920年代と言ったらやはりフォードは外せません。
- メルセデスSシリーズ
フォードとは打って変わる高級車。この時代では『S』『SS』『SSK』がありましたがそれらを纏めてSシリーズと表記します。
簡単に言いますとそうですね、昔ルパン三世が乗っていた車。あれがメルセデスSSKです。
この車はドイツのメルセデスベンツ社が順に1922年・192?年・1928年に発売したビンテージスポーツカーの歴史的傑作品とも言える代物です。
↓↓↓簡易スペック↓↓↓
この車の特筆すべき点は何と言っても普通の乗用車では比べ物に成らないスピードを出せる事です。
そのスピード何とSSK型で最高時速約192kmも出す事ができ、市販の乗用車でありながらスポーツカーとも張り合える物でした。
SS型は更にスピードを出そうと排気量を増やした改良版、SSK型はホイールベースを短くしレース用にチェーンアップされた物です。
またそれを制御する為にハンドリングも徹底的に扱いしやすくし、ブレーキ性能も群を抜いておりました。(流石にフルスピードからの急ブレーキでは事故が起こるでしょうが)
乗用人数は2人、ドアや窓は無く跨って乗り込みエンジン始動は鍵で開けました。
電気ライトは標準装備されています。
総評としましてはこの時代の車としては文句の付け所は無い車です。
しかし問題点が一つあります。S型SSK型共に生産台数が非常に少なかったという物です。
事実S型シリーズ全てを併せても370台未満の生産台数であり、SSK型に至っては33台と非常に少ない高級車です。
これぞ浪漫車と言える代物でしょう。
- 飛行船
この時代では未だ飛行機は空の旅への手段ではなく、飛行船が活躍していました。
飛行船は1900年、ドイツのツェッペリン伯爵が独力で初の飛行に成功したのが始まりです。
その後の第一次世界大戦では戦争に使われロンドン空襲等を行ったのが有名です。
その後戦争が終わり、ツェッペリンの跡を受けついだエッケナーが民間空路の開設をドイツで切り開きました。
主な空路先は1924年には大陸縦断航路(ストックホルム - ベルリン - ローマ - カイロ - ケープタウン)を開設。
1925年に太平洋横断航路(上海 - 霞ヶ浦 - サンフランシスコ)行きを開設。
この時代はアメリカやイギリスよりも敗戦国ドイツの方が飛行船技術は上回っており、
余りアメリカでは飛行船の製造等はしませんでした。
- 地下鉄(サブウェイ)
地下鉄は1904年当時には既にありました。
現在程アメリカ全土を網羅しているわけではありませんが少なくとも
ニューヨークはマンハッタンからブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区
までは地下鉄が通っていました。
- 街の移動に使う乗り物
タクシー、路面電車、バス等はこの時代に御座いました。
また、馬が好きな方は馬車も勿論御座います
この時代の武器、防具
- ハンドガン
コルト・シングル・アクション・アーミー…西部劇の時代から使われ続けてきた由緒ある銃。
S&W M10(スミス&ウェッソン ミリタリーポリス)…その名の通り発売から世界各国の警察、軍隊で広く使われている
あとはどっかで調べて
医療技術、科学技術等について
≪飛行機≫
1903年、アメリカのライト兄弟が世界初の飛行機「ライトフライヤー」を飛ばして以降、第一次世界大戦を経て飛行機技術は長足の進歩を遂げました。
戦後も飛行機の発展は続き、より速く、より遠くへ、その性能を高めていきます。ジブリの「紅の豚」で見られるようなレシプロ機が普及したのは、まさにこの時代です。
ダニッチのウィルバー・ウェイトリーがミスカトニック大学図書館で「ネクロノミコン」を漁りだした1927年には、
チャールズ・リンドバーグにより単独での無着陸大西洋横断飛行が果たされ、アメリカ、ヨーロッパを歓喜の渦に包みました。
もっとも旅客機の誕生は1933年のボーイング247の実用化を待たねばなりません。その後、高速で安定した飛行機は飛行船に代わって長距離空輸で大いに活躍していきます。
≪電気・ラジオ≫
中学・高校の物理で習うような、電磁気に関する基礎的な研究は19世紀に多く進みました。
1800年のボルタによる電池の発明を皮切りに
1820年・・・アンペールによる電磁気力学の体系化
1826年・・・「オームの法則」
1831年・・・クック・ホイートストンによる電信の発明
1838年・・・モールス信号
1876年・・・ベルが電話
1878年・・・エジソンが電灯を発明
1897年・・・電子が発見
1899年・・・ドーバー海峡越しの無線通信が成功
そういった技術的・理論的な成果が、産業的成果として花開くのが、ちょうどこの20世紀初頭にあたります。
1920年代には既に電気アイロン、真空掃除機、オーブントースター、電熱ストーブ、電気冷蔵庫、レコードといった家電製品が中流階級にも普及しています。
その中でもこの時代を画期するのはラジオの普及でしょう。ラジオ放送は、1920年に初の放送局がピッツバーグに開かれて以降、瞬く間に全米に広まりました。
ニュースや野球などのスポーツ実況、何より「ラジオ広告」は民衆の消費行動を大きく変え、マスメディアの成立、小売産業の発展へとつながっていきます。
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